やかな

         萩原 


















































痛みがわからない。

自分の痛みが分からない今、他人の痛みなんてもっと曖昧だ。

それはかつて敏感に感じすぎていたからかもしれなかった。

 人の痛みでさえ、自分の痛みに成り代わってしまった、あの頃。君と殺しあった、戦場にいたあの頃――……。








 再び、僕は戦場の地を今踏むことになる。
 今度は、自分の痛みを、失くして。

 君もそうなんだろう?アスラン
 ただどうして、僕たちは再び違う道を歩んでしまうんだろう?
 同じ症状を負っていても、平気で僕を見放してしまえる君が、憎くて愛しくて今はただ、仕方が無い。耐え切れない。
















 アスラン――君が……。


































1.













「アスラン、来てるって?」
「キラ……、あ、あぁ……」
 背後から突然声をかけた僕は、僕がいることに気づいていなかったカガリを、当然の如く驚かせる結果になる。

「そう。僕を殺しにきたのかな?」
「き、キラ!アスランは……」
「カガリが思ってるほど、僕らは綺麗な仲じゃないんだよ」

 戸惑う彼女に、そう、冷たく言い放って。
 僕はトンと軽く地面を蹴り、星の満たす展望デッキから彼女を残して離れた。


















 カガリに指輪を返したあの時から、僕は覚悟を決めていた。
 アスランと決定的に決別する何かを、僕は強く渇望している。
 些細なことにも、反応しないようにと勤めてきた。だから、カガリにも冷たい反応を返す。アスランを愛しているカガリに、極力自分の気持ちを悟らせない防御線でもある。心が痛まないといったら嘘になるだろう。
 しかし僕は肝心なその「痛み」という感覚が、酷く曖昧になり始めていた。
























 痛覚に異常を感じたのは、戦後ラクスと暮らし始めてしばらくしてからだった。

 お茶を淹れるというラクスに代わって僕がケトルで湯を沸かし(彼女は凝り性なので、きちんとお湯から沸かしてお茶を淹れている)、その沸点の噴出しサインを確かめて蓋を開けようとした其の時――水切りラックにあった果物ナイフが、流れる水のようにスパッとキラの手の平に落ちてきたのだ。

 鈍い音を立てたそれの衝撃に驚き、僕はケトルのお湯を腕にぶちまけてしまった。
 勿論熱湯のかかったその箇所には、酷い熱さを感じた。しかし、ナイフがまるでダーツのように刺さり、血が堰を切ったように流れだした手の平は、痛みはおろか熱の臨界点まで曖昧だった。

 つまり、痛覚が綺麗にすっぱ抜けていたから、火傷で感じる痛み、それも無かった。熱くても、我慢できないものではなかったのだ。ただ、まとわり付くような熱を感じるだけで。











 さすがに不安を覚えた。とうとう「作り物」の自分のもガタがきたのだろうかと、途方も無い恐怖を感じた。

 そして、次の週、カガリからきた連絡でそれは自分だけではないことを知る。


「彼」にもまったく同じ症状が出ていたのだ。そして、すぐに彼――アスランと連絡を取り、直接会ってお互いの症状を確認しあうことにした。







 …驚いたことに、痛覚は、二人の間でだけは、確かに正常に存在した。いや、よみがえったと言ったほうが正しいのか。彼に近づけば近づくほど感覚は呼び覚まされ、遠ざかれば再び痛覚はなくなる。アスランも同等だった。


 奇妙なこの現象を、医師には相談したが科学的な原因は取れなかった。

 ただ、精神的なものが、深くかかわっているのだろうとだけ、伝えられた。家に帰って二人の内情を知るマルキオにも相談してみると、もしかしたら、再びお互いが離れることを恐れてか――二人の防衛本能が無意識に働き、そうなったのではないかと。それが親友であるお互いを殺しあったという、凄惨な戦争が残した二人の見えない大きな傷跡だと、彼は言った。




























 痛覚をなくした分だけ無頓着になり、切り傷や痣の耐えない自分。











 今、それがほんの少しだが、リアルに鈍い痛みを感じられる。……アスラン、君が傍にいるから。

















2.



















 アスランが、それでも僕の傍を離れたのは、他でもない。僕が強くそれを望んだからだ。




僕らはその――友人以上の関係をもっていたが、彼にはカガリが、恋人がいて、僕の傍にいるよりやらなきゃいけないことがあるだろうと思ったから。

だから、オーブからアスランに越してきてはどうかとラクスが提案したとき、迷っていたアスランに僕は強く否定した。










アスランと僕は…いわゆるコイビトのような行為を繰り返していて、戦後その想いは…以前より比べものにならないくらい強くなっていた。だからこそ、痛みを失うという離れることへの拒絶反応が生まれたんだと思う。なぜそれが痛みという感覚に現れたのかといれば、形は違えど、二人とも人の痛み、自分の痛みを戦時中に深く感じていたからかもしれない。



それが、二人が離れることによって現れたのは、再び離れればまた傷つけあう悲しい関係になってしまうかもしれないという恐怖から。













マルキオは正しいと、キラは思った。














こんなにもお互いを悲しいほど欲している僕ら。





だからこそ、離れないわけにはいかなかった。





アスラン、君は既に僕じゃなく、カガリを選んだんだ。それにどんな理由があろうと、一度引いた引き金は元には戻らない。浮気だ、迷いだといって、簡単に解決できる問題ではない。僕たちは男同士なのだから。



カガリを愛せるなら、そのほうがいいんだ。それが、人としての自然な形なんだから。





だけど。














僕は、どうしても、出来なかった。



















それを果たすには、アスランを愛しすぎていて。
他の誰を見ろといわれても、無理だった。ラクスを…彼女の気持ちに応えてあげることはできない。








……アスラン、君ならまだ引き返せる。だから…
なのに、アスラン。どうして君は僕の気持ちをわかってくれない?





その痛みを。忘れた頃になると決まって、君は僕に会いに来る。





僕を、壊しに。





決してこの痛みを忘れてくれるなと、刻み付けるように――。










君は、ずるい。アスラン。いっそ、最期まで殺してくれればいいのに……踏み出しきれないくせに、カガリを傷つけてしまうのが怖くて、僕を奪いきれないくせに……こんなに残酷に、僕に痛みの記憶を刻み付ける。
















































3・































「キラ……」



アスランは、苛立ちを隠せずに、目の前のデイスプレイに長い指先をトントンとぶつけていた。



 いくら追いかけても、手に入らない存在、それがキラだと同時に、どうしても手に入れたい愛しい人でも在った。



 縋り、求めた先に、やっと手に入ったと思えば、キラは呆れるほどあっさりとアスランの腕から離れていった。赦せなかった。アスランは、気が違ってしまうほど、キラを求めている。いや、それはキラも同じなはずだ。





 キラもアスランも、男同士だ云々という前に、お互いを求めすぎて、とうとう心まで病に侵されてしまった。


















 痛覚が麻痺するということは、以外に不便なことが多くて、物をつかんだ圧迫も、誰かを殴った感覚も曖昧で、砂をかんでいるように現実から色は無くなった。けれど、アスランは内心少し安心していた。これでキラを手元から離さずに済むとそう思ったのだ。

なにせ二人は近くにいれば正常な痛覚があり、医師も、共に少しでもいることが一番の治療だと言った。    
だから、キラがまさかあんなことを言い出すとは、アスランは思ってもいなかった。カガリと共に行けと自分達は離れたほうがいいなどと――。










確かに、一時期の気の迷いで、カガリと関係を持ってしまったこともあった。けれど、それはしかし…言い方は悪いが、キラに会えないことがあまりにも辛すぎて、つい、彼女の面影に救いを求めてしまっただけなのだ。





しかし、キラにいくら説明しようと彼は断固として言い分を解ってはくれずに、そればかりかカガリをうまく誘導して彼女からもアスランと共に行きたいといわせたのだ。





勿論、彼女に悪いという気持ちはあるから、断りきれずにアスランはオーブへと発った。そして、ふつふつと沸いてくるキラへの憎しみや、怒りに任せて、見せつけのつもりでカガリに指輪を渡したりもした。
其の時のキラの反応といえば、頑なさがより強まって、祝福なんてしてくる限りで――ついに業を煮やしたアスランは、キラを傷つけるという曲がった愛の形で、キラに会いに行くようになった。



まるで、俺という痛みを、忘れさせるものかというように。





































アスランはキラの元へと向かう途中、ふと思い出したようにポケットに入っていたサバイバルナイフを出して、勢いよく自らの腕を傷つけた。
噴出すように流れる鮮血。
迸る微かな「痛み」にアスランは不敵な笑みを口元に浮かべ、道中を急いだ。
















































4.



 さざめく波打ち際の、慰霊碑の真下で。


 風は耳鳴りのように二人の間に吹いていた。


 出会い頭に、アスランは僕の首元を狙い、鋭い刃のナイフを投げてよこす。

「随分な…ご挨拶だね」

 寸でのところで僕は交わしたが、それでもアスランが一瞬早かった。
 ツキリと走るその痛みの衝撃は、久しく感じていなかったせいか、通常の何倍にもなって伝わってきた。
 伝う生暖かい感触に指を滑らせ、その血の赤を見ると、ドクンと脈が乱れる音がした。
 その赤は、今は酷く二人の興奮を誘うスパイスへと化していた。

「何度言ったら解るんだろうね?アスラン……そんなことをしたって、僕は君の元へは行かないよ」


 深呼吸をする。

 僕は勤めて冷静にそう言ってやると、アスランの美貌は更に面白くないとでもいうように歪む。

「俺はまだ、カガリを愛せるんだからか?そんなふざけた戯言、聞きたくも無い」

「だって…事実じゃないか!君は、カガリを……」

 その言葉に、つい、感情的になりながら僕はアスランを睨むと、アスランは感情をのぞかせた僕の姿を見て何故か嬉しそうに瞳を光らせる。





 しまった――また、僕の負けだ……





「俺を馬鹿にするのもいい加減にしろよ、キラ。あんな抱いてもいない女に、誰が恋してるって?」

「ア、アスラン…君って奴は――!」

「最低だ、か?聞き飽きたね、そんな台詞。いいか、キラ。俺が愛しているのはお前なんだ。お前にしか、欲情しない。そんな風にしたのは…お前なんだ、キラ――」

「何を…」

「何、だって?今更…よくそんなことが言えるよ」



 最初にお前を与えたのは、キラ、お前自身だろう?と。
 殊更冷酷に言い放ち、アスランは獲物を手にした猛禽類の眼差しで、ゆっくりとキラの甘い肌を暴いていく。



 手の内を晒してはいけない。

 僕がアスランをまだ愛していると、悟らせてはいけない。
 例え身体が……それを裏切って、まだ欲するが故に病んだままだとしても……。



しかし、それももう遅いのだ。



今日も僕の負け……



アスランはまた、欲望のままに僕をかき乱していくのだろう。





酷いひと――






 遠慮の無い指先が、抉るように爪を時折立てては、処女雪のようなキラの白い肌に鮮血の跡を築いていく。

「イ………あっ―――」

 すっかり耐性の乏しくなった僕の身体はびくびくと波打つ。

 神経を何重にも張り巡らされている気分だった。
アスランが触れるだけで、直に神経をまさぐられるみたいで、落ち着かない。
 鼓動がうるさくて、息も上手くつげやしない。

「あっ……アスラ…っや、め………!」

「やめないよ、キラ……あぁ、気が狂いそうだ。お前に触れたときだけ、今を強く感じる……痛いくらいに」






 救いようのない僕らは、その砂浜にまみれて、二人を繋ぎ止めている唯一つの「痛み」を共有し、恍惚と罪に溺れた。




 ――まるで堕ちていくのを、二人で望んでいたみたいに。
 躊躇いは、消えて散った。


































5.



 フリーダムがストライクに落とされ、酷く損害をきたしたキラが帰還した時。
 事態とは裏腹に、あっけらかんとしたキラのその様子を見て、ムラサメ隊や、AAのクルー達は皆口々に呟いた。



「あんなに怪我をなさっているのに―――キラ様は、本当にお強い……」

「そう、ね。前も弱音を吐かない性格だったけれどあそこまでではなかったわ……今は本当に辛い顔一つ見せないのね…」

 ミリアリアがそう呟くのを聞いて、カガリは複雑な表情をして言った。

「感じないんだ」

「え――――?」

「アイツ、今……痛みを感じなくなっちゃってるんだ」

 カガリが思わず叫ぶようになってしまったその言葉を聞いて辺りはシン、と静まりかえってしまう。

「アスランと――離れてから、ずっと。アスランも、同じだって………」

「……カガリさん」

 カガリは、いつの間にか溢れてきた涙をぽろぽろを流しながら言った。
 慰めるようにミリアリアが肩にそっと腕を回す。

「アイツら…っどうしちゃったんだろう……アイツらばっかりつらい目にあって……一体二人が何をしたって言うんだ……っ」

 アイツらがこんな目にどうしてあわなくちゃいけないんだ、と。
 何も知らない少女はそう言って、泣き崩れた。


































 変化は、当然訪れた。


 渇望していた、その存在に、僕はたとえようも無い複雑な感情を消化しきれずにいた。





 高揚と、絶望……



 眩暈がするような、甘やかな、痛み……。





 いつもと、確かに違っているその傷口。
 血が流れるのはいつもと変わらない。
 ただそこには、空虚さではなく、微かな感覚が見出だせる。






――それは、痛み、だった。









 彼から、
 インパルスから受けた傷は、確かにじんわりと痛みを帯びていた。
 見つけた、と思った。
 見つけた――僕に、痛みを与えてくれる、アスラン以外の存在を。



 追い詰められた先に、キラはようやく一筋の光を感じていた。

 これでこんなにも辛い恋から逃れられるかもしれない。
 唯一無二の存在だった、アスランから。






 後に知る、シン・アスカという少年との出会いに、僕は最後の細い藁に縋る思いでいた。
 これで、この狂った檻の中から、アスランを逃がしてやれるかもと。そう思っていた。


































































 ……小さな頃の記憶だった。

































 白い壁に囲まれた四角い空間。
 そこで、幼い僕は呼吸をしていた。噎せるような消毒薬の香りを感じながら。


 キラはその細い両腕に白い潔白な包帯を巻かれていた。
 どこか病的なその光景。
 不安で堪らなくなって膝を抱える。ぎゅっと腕に力を込めれば、そのまぶしい白は鮮やかに滲んだ血の色にあっけなく染まった。










 自分を、傷つければ……優しい両親は戻ってきてくれる。幼い自分が必死で考えた結果のことだった。











 早く―――早く、迎えにきて。腕にますます力が込められる。滲む、眩暈がするような赤。






 キラは、小さな自分の分身を見つめながら、やりきれない思いで胸が張り裂かれそうだった。





 教えてやりたかった。誰も―――迎えにはこないんだよと。本当の両親には二度と会えないんだよと。勿論、「幼馴染」の「優しい」アスランにも二度と――――。











































































   6.

 彼とは、一度会っているような気がした。

 鼓膜に焼き付いて放れない、回線を伝って聞こえた少年の叫びは聞いたことのあるものだったから。



 泣いているような悲痛な声。あの時も一緒だった。あれは……そう。あの慰霊碑の前であった少年の声と同じ痛みだ。










「アスラン……」

 そっと呟いたその名のせいで、キラの胸から微かに疼くような感覚が浮かび上がる。
 身を焦がすその衝動。





 君なら知っているんだろう。彼の名を。姿を。





 彼が君を救うよ……僕から。





 キラは横たわっていたベッドからそっと起き上がり、もう一度、軍服に袖を通した。






































 医務室から出ると、目を真っ赤に泣き腫らしたカガリが佇んでいた。今まさにこの病室に入ろうとしていたのか、中から開いたドアと、其処から現れた存在に随分と驚いたようだった。
 口をぱくぱくと開いているが、声が出てこないらしい。





「…お、前……っ何、起きて…っ」

 やっと言葉になったんだろうその声は、随分と曖昧だった。

「うん。ちょっと、出てくる。機体借りるから」

「な……!」

 何でもないことのようにさらりと言ったキラを、彼女は驚愕の眼差しで責めた。

「お前っ何言ってるんだ!まだ体動かしていいような状態じゃないんだぞ!それに何処に――」

「カガリ」






 がなりたてる言葉を遮り、カガリの目の前へ…まるで口接る距離まで近づいて、キラは言った。



「もう僕なんかの為に泣くんじゃない。君は一国の主なんだ」

「……キラ!」

 今までの突き放す冷たい態度とは違うものを見て取ったのだろう。



 カガリの琥珀色の瞳が、一瞬にして透明な涙に溺れた。

「また泣く……いい?これが最後だよ」






 溢れ出した涙に震えている彼女の肩を引き寄せ、精一杯優しく抱きしめた。














 愛しい僕の分身。僕の分まで幸せになって。強く生きて欲しい。





 今まで辛く当たってごめんね……。



 牽制と言ってはみるものの、やはり多少の嫉妬心があったことも拭えない。君はアスランの恋人だったから。僕がどんなに望んでも手に入らない位置に君はいたから。



 でも……そんな意地悪も今日で全部終わりにするから。













 本当は大好きなんだ。カガリ。ずっと笑っていて欲しい。
























「今日で……決着をつける。君の中の僕は、今日で死ぬんだ。いいね?綺麗に忘れて」

「…っキラ!」

「幸せに」





 キラはカガリをドンと突き放して、ハンガーへと急いだ。何度も彼女が僕を泣き叫ぶ声が聞こえたが、振り返ることはなかった。





 あんなに泣くカガリは初めて見た。
 どんなに冷たくする演技をしていてもやはり双子だ。思いは通じてしまうものがあるんだろう。僕がこれから何をするのか。








































































君は……気付いた?



               アスラン











to be...